「自発的な仕事」を育む
先週吹奏楽のコンサートに足を運び、昨日テレビでサッカーの日本代表線を観た。
奏者・選手一人ひとりが誇りを持ってプレイしていた。
一方自分はどうだろうと考えてしまう。
単なるIT系技術職のサラリーマンとして、どのようなプレイをしているのであろうか。
10月冒頭というのは、前の半年間の評価(査定)を見つつ今後の仕事の進め方について考える時期。
頭の中の「仕事」の話題に、「コンサート」や「サッカー」が覆いかぶさってきた形となってしまった。
前期の振り返りと今後の仕事、ともに不意にキーワードとなったのは「自発的な仕事」である。
"チーム"としての自発的な仕事。会話の中で出てきた一瞬のフレーズであった。
チームとは
吹奏楽とサッカーの話に戻る。
学生時代に吹奏楽をやっていたことから、コンサートがどのような過程を経て、何をやることで成り立つものなのかは充分理解している。
一方サッカーは代表戦を毎試合見るだけで、遊びでやったことがある程度だ。(説得力にかけ申し訳ない。)
共通点としては、チームであるということ。
複数人がいて、実働者と指揮官がいること。そしてその中には役割(楽器/ポディション)と指示系統(指揮者/監督)がある。
実働者は役割に特化した練習を日々するであろうし、指揮官はパフォーマンスを最大限発揮できるよう意思決定とコントロールをするはずである。
ルール
コンサートでも、サッカーの試合でも、「約束事」は欠かせない。
それはチームとして、成功する確率を高めるためである。
重要なのは"チームとして"の部分であり、個人がそれぞれの意思でできる何か、例えばテニス(シングルス)などの個人競技ではわざわざ「約束事」を決めることはないだろう。(戦略は考えるだろうが、決めつける必要ない。)
この約束事は、チームプレイとしてのルール(規則)となる。
プレイ
プレーヤーはチームとして意思統一されたルールに従い、最善をつくす。
音楽とスポーツの面白いところは、それを生身の人間がやっているということである。不確実性が高く、クリエイティブであるということだ。
人間がやっているからこそ、現場の空気感に沿った修正や創造的な連携もできる。
音程は練習と違うかもしれないし、相手の体格(フィジカル)はぶつかってみないとわからない。練習ではなかった発想が生まれることもあるだろう。
"チーム"として「自発的な仕事」の条件
風呂敷の回収にそろそろ移ってゆく。情報技術のサラリーマンとして、上記考えてきたことをどう結びつけるか。どう噛み砕いてみたか。
"チーム"として「自発的な仕事」を育む方法。
それは、次の3つがある前提に立つ必要があるのではないだろうか。
- 目的
- 役割
- 約束事
目的
「目的」についてこれまで言及してこなかった。音楽・サッカーは我々の通常の仕事よりも目的がわかりやすいと感じる。
私としては、音楽は誰かと一瞬を共有するため、サッカーは相手より1点でも多くとるため、プレーしていると考えている。
もちろん個人的な見解である。ここで言いたいのは、目的のわかりやすさが違うということだ。
世の中の仕事は細分化・最適化されている。その中で目的は後回しにされるようになっていると感じる。
多くの人数で同じことをやるには目的は欠かせないだろう。
役割
役割は明確だろうか。
業務に言い換えると、やるべきタスクとなる。
音楽では(場面で変わるが)下支えを演る役や、彩りをつける役など。サッカーでは点を取る役や、相手のゴールを防ぐ役など。
業務遂行にあたりこれが一人ひとりに明確に与えられている必要があると考える。
また、その役割がチームで共有されることも重要だ。
約束事
これは成功する確率を高めるためにある。
業務では、フローや手順書、スタイル(アジャイルなどの方法)がこれに当たる。
こういう状況になったら、このような手段で対応し、適切に報告と復旧にあたる。など、具体性があるものが多くなるのではないだろうか。
業務上の約束事は、メンバーを守るためにも必要だ。(合意したやり方でやっている限り、失敗しても個人は悪くない。)
最後に
"チーム"としての「自発的な仕事」には、下記が存在することが条件と定めてみた。
- 目的
- 役割
- 約束事
この3つが揃う環境であれば、自発的な動き(現場の空気感に沿った修正や創造的な連携)ができるのではないかと考えた。
しかしこれは条件であり、起因ではない。引き続き悩みたい。
当然私の頭の中で考えたことなので、すでに世間ではは周知の事実であったり、どこかで私が聞きかじったことの模倣になっているのかもしれない。
当たり前だな。と思った方には申し訳ない。
今後はこの仮説のもと行動するとともに、「自発的な仕事」というもが人を幸せにするかについても興味を持ちたい。
忖度した行動の結果自然と裏切られることもあるだろう。仕事に自主性を求められることをプレッシャーと感じる人もいるだろう。
幸せも含めて考え、やっと答えが出るように感じる。